昭和三十九年四月、本校の笠置英行先生がガリ版刷りB4袋綴じ総紙数百十二枚に及ぶ「高橋文庫本目録及解説」上下を作成されました。|
「人吉市南泉田町 故 高橋主敬翁----幕末・明治初年の漢学者、幸野溝開鑿者たる高橋政重八代目の子孫----の愛読書二千三百冊余を昭和初年当時「馬車」一台に満載して、旧制人吉中学校に寄贈せられたもの。 久しく倉庫に保管せられしものを、数年前より調査し、其の間、西南学院大学 井上忠先生、東京大学教授阿部吉雄先生、九州大学教授西尾陽太郎先生・岡田武彦先生のご来訪ご指導を頂き、調査した資料に基づき、本校生徒のために、これを纏めようと試みたものである。」 |
| 「また、痛みがひどかったり、バラバラの断片だけで書名が判明しないものや、笠置英行教諭の索引に記載のなかった本は、『目録外』として纏めてケースに収納」 |
|
「熊本県立人吉高等学校記念図書館に蔵される高橋文庫は、幕末から明治にかけての漢学者、県会議員高橋主敬翁の旧蔵書を、高橋家が昭和の初め馬車一台に満載し、旧制人吉中学に寄贈したものだと伝えられている。 主敬翁は人吉南泉田の住。地元の灌漑施設として名高い幸野溝の開鑿者高橋政重より数えて八代目に当たり、天保十一(一八四〇)年重陽の日の生まれ。藩校習教館に学び、新宮簡に贄をとった。明治十二年三月二十日には県会議員に当選し、十二年に亘って其の任を負うた。佐藤一斎の愛日楼に因んでか愛日亭を名告り、別号●(禺へんに頁)斉、甃斉、字観生と称した。明治四十一年六月二十一日没、享年六十九。 高橋文庫は、宇喜多秀家を総帥とし、秀吉の命により朝鮮へ出陣した大名の手で将来された朝鮮本三点のあることで知られる。これには「養安院蔵書」の双枠朱印が捺され、「困知記」には「養/安」の鼎形朱印も鈐されている。「魯斎全書」、銅活字本「朱子語類」と共に県の文化財に指定され、桐箱に納め別置されている。養安院の院号は代々継承されているが、宇喜多秀家内室の難病を手当てした正琳に架けるのが蓋然性が高い。内室快癒の礼として秀家は多くの朝鮮本を正琳に喜捨したと云う。 しかし高橋文庫の特徴は、幕末人吉藩の家老職に任じた渋谷(重周、巴山)、田代(政典、毅軒、政●、簡●、水哉亭)両家の蔵書を湊合している点にある。渋谷家蔵書は重周の父、勘定奉行重哲・県会議員、のちに帝国議会議員で肥薩線開業に尽力した、重周息男、重礼の蔵書を含み、田代家蔵本は政典・政●・政●・政甃・)三兄弟それぞれの蔵書と手写本とから成り立っている(ただあくまでも中核を為すのは正●蔵書である)。これらは郷土の歴史を学ぶ者にとって洵に垂涎の書物群であろう。 今政●を例にとって一言すれば、詩集に「次男政●留別作」「先考十三回忌」「亡児十三回忌」「奉賀一斎先生八十八寿」「壬戌元旦作・・・今歳吾齢七十三」などの作があり、「安政四年●月・・・辞官不許」の文字も見える。草稿には「文化辛未(八)季春」「以下癸酉(文化十)江都遊学中作」「以下甲戌(文化十一)米府遊学中作」として「樺先生評点得体」と得意の作もある。 政●はこうして熊本の辛島塩井、久留米の樺島石梁、江戸の佐藤一斎に経世済民の学を得た。他に士としての道、槍術・騎馬・武具調度を各々師礼をとって修めている。これらは蔵書構成に如実に示されており、詩文よりも家老職に必須の治世・為政・法令書、洋式を含んだ兵法・武家故実・有識・調度・藩祖・藩史に関するものが先となり、それらが手写本も含め多く遺存している。元和九年刊古活字本「貞観政要」などもこうした観点から覓められたものであろう。師一斎の「孫呉副詮」に倣った司馬法と尉繚子の旁詮の著作(何れも田代氏水哉亭蔵板本)が存し、後述する笠置英行氏の解題目録では「尉繚子旁詮」の自筆稿本が著録されているが今見えない。 人吉高校教員笠置英行氏の労作は、昭和三十九年四月の序、四十年二月の跋を持つ油印本。本目録と存欠に出入りがある。跋語に「四十年の長期間にわたり湿気のために腐蝕して、いつか整理したが適当かと考えられるものもあり、バラバラになっているものもある。・・・・放っておいたら駄目になるところだと思った」と記されている。倉庫保管の間に湿気と虫損とで太しく痛みを蒙ったものがある。行方不知や別置せられているものがなお存するかも知れない。 現在はプラスチックの衣裳函三十五函、一昨年新に見つかった分三函、計三十八函に入れられ、図書館研修室の壁面の棚に積載されている。 前述したほかやや稀観に属するものとして「五経大全」大通旧蔵本、「四書大全」、元版を覆刻した「論孟集註輯釈」、「晦庵先生朱文公文集」、朱墨套印本「韓文公文抄」(序の句読は藍点)等の明版数種がある。 高橋文庫に残された草稿や書物への識語・書入れによると、藩士の多くは久留米の樺島石梁、江戸の楠本端山、中津の倉成龍渚、江戸では端山が序文を識している「闢邪小言」の著者、大橋訥庵や佐藤一斎、また昌平黌に学んだようである。一斎や訥庵を通じ、陽明学勤王に親しい者もいた。これらは実生活にかなり影響を与え、政醇の西南役での戦死も決してそれと決して無縁ではなかろう。 こうした人々の一世代前には細井平洲に学んだようで、樺島石梁はその平洲門、やはり一連の師承、学系、文化圏があった。 幕末藩の家老職を亜いだ二家の蔵書を中核とする高橋文庫と、市図書館の蔵する高畠晋蔵書を中核とする相良文庫とは、両々相俟って幕末維新期の人吉藩を知る好個の手懸かりを与えてくれるであろう。」(以下七行省略) |